昨日は佐川美術館で開催されていた「田中一村展」を見に行った。
http://www.sagawa-artmuseum.or.jp/plan/2018/02/110.html
田中一村(1908年-1977年)は今年生誕110年を迎え、また、春頃に「なんでも鑑定団」で取り上げられたからか、なにかと話題になっている、花鳥をよく描く日本画家。

昨日は最終日だったこともあり、交通の便があまりよくない美術館であるにも関わらず、大勢の観覧者で混んでいた。
この展示では神童と呼ばれた幼少期から、南画から琳派日本画まで様々な技法を模索していた東京から千葉で暮らした青年期、日本画壇に挑戦したものの受け入れられずに奄美で暮らした壮年期~終焉まで、歴史を追うように紹介されていた。

一村は生前は画壇にほとんど評価されなかった画家で、死後に「発見」され、近年は南の島、奄美で描き続けたことから「日本のゴーギャン」とも呼ばれる。
長い遍歴の中で、奄美で日本画ではあるものの独特の画風を手に入れ「南の琳派」とも言われている。

上述のように、生前は画壇にほとんど評価されなかった人で、また、お金のために依頼者に媚びて描くことを嫌った人なので、作品は支援者や知人のために描いたものが多く、「個人蔵」とされているものがほとんど。

見ていてわかるのが、一村画の特徴である自然観察眼の凄さ。
とことんまで観察をしてから描くので、植物や鳥類の書き込みがひじょうに細密。
私は鳥が好きなので、かわいい小鳥が登場する好きな絵が気多くあり、また、山登りを趣味とする者として紅葉の様子が「そうそう、そうだよね!」と手を叩きたくなるほどリアル。
また、知人に贈ったものとしては色紙に描いたものが多いのだが、構図としては色紙の範囲に収まらず、外側にさらなる世界があることを容易に思わせるのも凄い。
写真と比べての絵画の特徴は「画面に見えるもの全てを描かず、モチーフに必要/不要なものを取捨選択する」という点がある。
しかし、一村の絵には画面の中に思うモチーフが「ある」だけでなく、その外にも世界があることを主張しているように見える。
そのせいで小さいはずの色紙に描かれた絵が実物以上に大きく見えた。

ひじょうに満足度が高い展示であったが、惜しむらくは、一村の大きな特徴である奄美での作品があまり多くなかった点。
とくに一村自身が「閻魔大王への土産品」といった最終期の2作品「アダンの海辺」と「不喰芋と蘇鐵」が、他所で展示するために展示期間が終わっていたことは残念でしょうがない。
実物大の複製パネルでもその迫力が伝わってきたのだから、実物であればもっと感銘を受けたことであろう。
ただ、一部の作品が展示されている「他所」というのが、今パリで開催されている「ジャポニスム2018 日本の美意識」でというのだから、それはそれですごい。
生前との扱いの違いについて、草葉の陰から一村はどう思うのだろうか?
世界が自分にやっと追いついたと満足しているのだろうと思う。