高畑誠一氏の生誕地を尋ねて

先日、愛媛県松山市で講演をする機会があったので、前日に前乗りして同県内子町を訪れました。
内子町は愛媛県の内陸部にある小さな町で、かつては木蝋の生産で栄えた町です。
(木蝋は、ろうそくや艶出し、膏薬などの原料として使われたものです。)
この町は、日本の貿易業界の先覚者の1人であり、現在日本を代表する大商社の1つである双日の前身、日商を設立した高畑誠一氏の生誕地でもあります。
今回、私が訪れたのも、高畑氏が生まれ育った町を見に行こうという考えからです。

高畑誠一氏の生誕地の碑

高畑誠一氏の生誕地の碑

同氏は、1887年(明治20年)にこの内子町で生まれ、同県西条中学(現在の西条高校)、神戸高商(現在の神戸大学)に進んだあとに、1909年に神戸の鈴木商店に入社しました。
そのため、内子町には、生誕地にその旨を示す石碑が、そして内子小学校には銅像(胸像)が建てられています。

高畑氏の入社当時、鈴木商店はまだ砂糖、樟脳、薄荷(この3つは三白とも言われます。)などを商う、小規模な商社でした。
しかし、1912年に26歳の若さでロンドン支店長に抜擢されると、鈴木商店と高畑氏の大躍進が始まります。
折りしも欧州で勃発した第一次世界大戦で、各種物資が不足する欧州市場に対して、高畑氏が鉄材、船舶、小麦など数々の大商いを成功させた結果、鈴木商店は押しも押されぬ大商社に成長したのです。
その交渉のタフぶりは、英国人をして「カイザー(ドイツ皇帝のこと)を商人にしたような男」と評されるほどでした。

内子小学校にある銅像

内子小学校にある銅像

高畑氏が日本の貿易の先覚者といわれるのは、このように欧米人を相手に堂々たる取引を成功させたためだけではありません。
本国(つまり日本)を介さない、三国間貿易を日本で初めて本格的に行った人物であることも大きいでしょう。
通信手段が今ほど発達しておらず、情報がリアルタイムでなかった当時、商品を降ろした船は、そのまま空船で戻ることも珍しくありませんでした。
高畑氏はそれに目をつけ、帰り船にも商品を積むどころか、元の出港地とは全く別の港に商品を送り出すという手法を編み出しました。
これによってビジネスの効率が格段にあがり、売上げも何倍にも増えたのです。
今でこそ、「商社による三国間貿易」は珍しくない、というよりも、日本の商社のお家芸ともいえるものですが、その先駆者が高畑誠一氏なのです。

ちなみに、高畑氏がロンドンで活躍していたのと同時期、川崎造船所(川崎重工の前身)社長であった松方幸次郎氏がロンドンで美術品を買い集めていました。
同氏が集めた美術コレクションは「松方コレクション」として有名ですが、美術品を買うための資金が足りないときに松方氏が「金のことなら鈴木(鈴木商店、つまりはロンドン支店長である高畑氏)に」と言ったというのは有名な逸話です。
つまりは、現地での資金融通をしてあげたということですが、高畑氏が美術の世界にも大きな貢献をしたとも言えるでしょう。

こうして大躍進を遂げ、一時は三井物産を越える売上となった鈴木商店ですが、関東大震災とそれに続く昭和大恐慌、そして、そういった危機的な状況でも拡大方針をとった投機的なビジネスの結果、1927年に経営破綻してしまいました。
その際、高畑氏が鈴木商店の残党とともに1928年に設立したのが日商で、その後、企業合併により日商岩井から双日へと繋がっていくわけです。
(日商は鈴木商店の子会社であった日本商業会社という会社を、改組したもの。)

高畑家の墓所

高畑家の墓所

また、私はゴルフを知らないのでよくわからないのですが、高畑氏は日本のゴルフ界にも大きな貢献をしたことでも有名だそうです。
日本にまだゴルフの公式なルールブックがなかった時代に、独自に日本語に訳したルールブックを出版したのが同氏だそうで、「日本ゴルフ界の祖」といわれることもあるとか。
内子町のカントリークラブには、高畑氏が使ったゴルフクラブが飾られているそうです。

このように、戦前から戦後にかけて日本の様々な分野で活躍された高畑誠一氏ですが、そのお墓もやはり内子町の禅昌寺にあります。
愛媛県の偉人としては、正岡子規、秋山兄弟がよくとりあげられますが、私としては、高畑誠一氏はもっと知られていい人物のはずだと思います。

ちなみに、内子町内にある「商いと暮らしの博物館」で、高畑氏を紹介するパネルがありましたが、記載内容が「日商(現 日商岩井)」となっていたので、係の人に「今は日商岩井じゃなくて双日ですよ。」と指摘しておきました(笑)。(I)