備中高梁をプチ観光

GW最初の3連休は、両親実家の都合で岡山県・高梁へ。
その都合が予定よりも早く2日目午前で終わったので午後に高梁をプチ観光。
 
まずは、高梁川のほとりにある山中鹿之助の墓所。
山中鹿之助(山中幸盛)は戦国~安土桃山時代の尼子氏家臣で、尼子氏が一時滅亡した際にはその再興に尽力した武将。
尼子三傑の一人、尼子十勇士筆頭とされる武勇の人であり、再興にあたって「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話が「戦国一の忠義者」として戦前の教科書に載っていたという。
その一方で、2度の再興運動の失敗と、その最期が毛利氏による謀殺であったことから、戦国時代をテーマにするゲームでは「武勇には優れているが知力は低い」という扱いを受けるちょっと不遇な人だったりもする。
(例:PCゲーム「信長の野望 覇王伝」のパラメーターでは、戦闘85に対して智謀23)
 
上記のように人気者であるため鹿之助の墓所は各地にあるのだが、この高梁川のほとりにあるのは、ここが謀殺された「阿井の渡」だから。
しばし、戦国時代に思いを馳せながら合掌。
なお、山中鹿之助の子孫が、初めて清酒の大量製造に伊丹で成功し、後の鴻池財閥の礎となった鴻池新六。 
鹿之助は関西ゆかりの人でもあったりする。
 
その鹿之助が阿井の渡から向かおうとしていたのが、敵である毛利氏が在陣していた備中松山城。
(降伏の条件として人質となるために送られる途中だった)
プチ観光2ヵ所目として、現存天守12城の1つにして唯一の山城であるこの城に向かった。
臥牛山(標高487m)の山腹、標高約430m地点にあるので、足で登城するには当然のことながら約1.5kmの軽登山が必要。
車でも途中までしか行けないので、少なくとも700mは自分の足で登らなくてはいけない。
季節によっては「雲海に浮かぶ城」という幻想的な風景も見ることができると高梁市はPRに懸命だ。
 
今は雲海の時期ではないが、初夏で気候も良く、新緑(この山は全山が自然林)が気持ち良い時期なので(虫もまだ少ない)、ベストシーズンと言える。
登城道は階段続きで、今回のようにハイキング装備なしで登るのはちょっと大変だが、途中には忠臣蔵でおなじみの大石内蔵助が登城途中に休憩で腰かけたという岩もある歴史のある道。
約1時間で城の遺構のあるエリアに着く。
山肌に張り付くように築かれた石垣もさることながら、重要文化財である天守や櫓、土塀のいずれも、よくこんなところに建てたなと感心する。
(国宝ではないのは、いつ建造なのか厳密な年がわからないかららしい)
最近の備中松山城で人気なのは、本丸に住んでいる城主の「さんじゅーろー様」。
平成30年頃からここに住み着いた結果、御城主にと大出世した猫城主様だ。
とても人懐っこく、撫でられても平気だというご城主様だが、今はコロナ禍のために撫でるのは禁止。
そのため、多くの人が周りを取り囲んで写真を撮るのだが、全く物怖じせず、自由気ままに歩くは、毛繕いするわ、寝るわで、その様子を見るのが楽しい。
いつも猫には逃げられてしまう私だが、さんじゅーろー様は全く逃げないので、お姿の写真をたくさん撮れた。
 
今回は時間がなかったので、行けたのはこの2ヵ所。
 
高梁にはこの他にも、かつてベンガラ生産で栄えた、日本遺産「ジャパンレッド発祥の地」である吹屋ふるさと村、当地出身の洋画家である児島虎次郎(倉敷の大原美術館の初期所蔵絵画を欧州で買い付けてきたことで知られる)を顕彰する成羽美術館など、他にも見るべきところがけっこうある。
最近では、当地出身の幕末期の儒家・陽明学者にして松山藩の藩政改革に尽力した山田方谷を大河ドラマの主人公にしようとあちこちでイベントも開催している。
 
※人口減のために中心市街地がシャッター街になっているのが心配だが。
 
岡山観光といえば、岡山市や倉敷市、せいぜい総社の吉備津彦神社ぐらいという人が多いだろうが、ちょっと高梁まで足を延ばせば、見るべきところがいっぱいありますよ!
 

山中鹿之助の墓所

険しい山肌に築かれた山城

備中松山城の天守

子供と語らう?さんじゅーろー様

天守と御城主さんじゅーろー様