青森旅行 その1

今月(3月)頭の週末、青森旅行に行ってきた。
1月末の出張ついでに観光もしようと思っていたのが、あまりにも豪雪でどこにも行けなかったリベンジということで。
 
今回は前から行きかった「八甲田山雪中行軍遭難資料館」に。
この事件は、青森歩兵第5連隊からの参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)という、近代登山史において、日本のみならず世界最大の山岳遭難事件と言われるものだ。
事件の概要は新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」や、それを元に映画化した「八甲田山」が有名なので割愛するが、知らない人は読むなり、観るなりして欲しい作品だ。
 
日露戦争前夜、日本軍はロシアという厳寒地での戦いに備えた準備をする必要があった。
また、青森や弘前に日本軍の師団があったが、もしロシア軍が攻めてくるなら青森-八戸間の海岸線と想定されていた。
そのため、八戸までのルート(海岸線)が使えなくなった場合に備えて、八甲田山系を超えて十和田経由で進軍するという考えの下、それが冬季であった場合に人力ソリなどで物資の運送ができるか確認する必要があった。
こういう背景で行われた雪中行軍であるので、この悲劇の事件も当時の日本軍の体質・性格によるもののように思われがちだ。
たしかにそういう面が皆無とは言えないが、実際にはそうではなく、現代の登山遭難の事例にも通じる失敗によるものであったことはがこの博物館では知ることができる。
 
エントランスでまず目に入るのは、後藤房之助伍長の銅像(レプリカ)。
この人は数少ない生還者の1人であるが、仮死状態で立っていたのが発見された時の姿がこの像。
本物の像は八甲田山中に立っている。
「八甲田山中」とは書いたが、この資料館で驚いたのは、遭難した場所が八甲田山系の麓とも言っていい場所だということ。
それこそ映画では相当山深いところでの遭難のように見えるが、実際には青森の屯営地から20kmも行っていないところが悲劇の舞台。
要は視界を失ったがために自分はまっすぐ進んでいるように思っていても、実は同じところをぐるぐる回っているという、「リングワンダリング」現象と呼ばれる状況になったということらしい。
 
これほどまでの事件になったたのは、厳寒期にはふさわしくない服装や食糧を持ったために役立つどころがマイナス効果を生んだこと、また、地理に詳しい案内人を雇うこともなく、また、地元民が行くべきではないと言ったにもかかわらず強行したことがその原因と言われる。
これらは、現代の雪山遭難事故でもよく挙げられる原因だ。
実際、ほぼ同時期に弘前から出発して逆方向から青森に向かった弘前歩兵第31連隊は距離も圧倒的に長かったにも関わらず、全員無事に到着している。
こちらは事前に木こりやマタギなどから情報収集したうえで、靴下を三枚履きするなど防寒対策を十分に施し、また、案内人を雇っての行軍だったのが効を奏している。
はやり装備不足と情報不足・軽視が生死の分かれ目だったということがよくわかる。 
 
資料館の裏手にはこの事件で犠牲になった人たちの墓地(陸軍墓地)もある。
今回は雪に埋もれて標柱のてっぺんしか見えない状態だったが、小説や映画でそれぞれの人物がわかったならお参りしてもいいかも。
なにせ青森駅からのバス便しかなく、それも便数が少ないので観光用としては知名度の低い施設であるが、見ごたえもあり、いろいろと教訓にもなるので、ぜひ。
 

八甲田山雪中行軍遭難資料館 外観

エントランスにある後藤房之助伍長の銅像(レプリカ)。本物は八甲田山中の馬立場にある。

当時の装備を着て、その重さを体験できる。背嚢を背負うと、銃やショベルを持たなくても思い。