大阪府立貿易館跡(貿易の歴史散歩)
大阪市中央区内本町、大阪府の産業振興施設「マイドームおおさか」前に「大阪府立貿易館跡」という石碑がひっそりと立っています。
この石碑は、この場所が大阪貿易史の中で大きな役割を果たしていた証です。
明治初期、大阪港は貿易港として開港されていたものの、当時の大阪商人は自ら貿易取引を行うことに消極的で、外国商館に任せきり、頼り切りでした。
結果的に、貿易取引の利益の多くが外国商人に流れてしまっていました。
その現状を憂えた大阪府は、明治23年(1890年)に貿易振興機関「大阪府立商品陳列所」を堂島に設立しました。
ここでは現在のジェトロ(日本貿易振興機構)のような業務を行っていたそうです。
その後、堂島の商品陳列所は大火災で類焼し、大正6年(1917年)に再建された地がここというわけです。
再建した建物の設計者は広島県物産陳列館(現原爆ドーム)の設計者であるチェコスロバキアの建築家ヤン・レッチェルでした。
当時の写真を見ると、広島県物産陳列館と似てるように見えます。
商品陳列所は昭和5年(1930年)に「大阪府立貿易館」と名称を変え、活動内容を拡大させていきました。
商品陳列所時代にもシンガポールやインドネシア(スラバヤ)に海外駐在員を派遣していましたが、貿易館となってからは、中国の新京(現、長春、当時は満州国首都)や上海、青島など、また、米国のニューヨークにも分室を設立し、大阪の貿易振興を図っていました。
戦時中には戦時体制の下で「大阪南方院」と改称されましたが、戦後の昭和21年(1946年)に大阪府立貿易館が復活しました。
管理貿易下では貿易取引の斡旋、民間貿易が本格復活してからは見本市への参加、貿易専門学校の設立、当時の主力産業であった繊維製品への意匠図案公募などの貿易振興に取り組んだ他、ジェトロ設立後は協力して、大阪企業の海外展開支援を行っていました。
このような変遷と活動を行ってきた大阪貿易館は、大阪府の機構改革に伴い、昭和62年(1987年)にその活動を終えました。
実に97年間もの間、大阪の貿易振興を行ってきたわけです。
今ではその地は、大阪府の産業振興施設である「マイドームおおさか」として、各種商談会や見本市、ビジネス関連のカンファレンスを行う場となっています。
また、その中にオフィスがある(公財)大阪産業局がその業務の一環として海外ビジネス支援を行っています。
大阪府立貿易館の血脈は今でも受け継がれているわけです。
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